根底にある差別意識と性自認、性指向

私はコンテンツとして同性愛を楽しんでいるが、現実的に自分に関係することとして捉えると拒否感が出てくる。

そもそもコンテンツとして楽しむ姿勢もどうなのかと思う。

ただこの点については、異性愛をコンテンツとして楽しむ人がたくさんいるので同列として考えたい。

ここでまた同性愛を異性愛と同じ文脈で語れるのかという疑問が生じるけれども、私は語れると思っているし語るべきだと思う。

 

本題に戻る。

冒頭に書いた考えの大本は、端的に言うと自分は安全な位置にいながら弱者の支援をしたいという気持ちの表れである。

当事者になりたくない。

 

自分自身は異性愛者でも同性愛者でもないなあと思う。

男も女も好きだけど、いざ自分が付き合うとなるとどっちも違うような気がしてならない。

確実に言えるのは、私は女の側になりたくないということ。

これはどっちと付き合うにしろ感じる。

男に生まれて女と付き合いたかった。

でもこれから男になるのは違う、なったところで本物になれないし。

異性愛がしたいので彼氏は欲しいんだけれども、自分が女に見られていることを考えたら気持ち悪い。

これは今まで女扱いされてきていないから生じる気持ちなのか。

男として女と付き合ったとしても結局自分は男ではないし、相手は同性愛者であるから私を多分女だと思っているだろうし、女同士で付き合っているからやっていることは同性愛だし、などと無駄に考えてしまう。

女と付き合うと同性愛をやっている自分が気持ち悪くなる。

同性愛はしたくない。

こうやって差別している自分も嫌になってくる。

 

一番良い選択は異性愛至上主義の考えを捨て去り、また二元論的な性別に当てはまらない自分を受け入れること。

でも楽な方に逃げたいから、自分が女であることを認めて男と付き合いたいとも思う。

結婚したいし子ども欲しいので。

本当にしたいのではない。

自己実現できないから他者との関係において何か成し遂げたような気になりたいだけだ。

 

そもそも私は恋愛している場合じゃないと思う。

誰かとまともな関係を築くには精神が不安定すぎる。

相手にされた人がかわいそう。

心の底では別に恋愛はしなくていいと思っている。

彼氏は必要なのではない。

自分に何もないから彼氏で埋めようとしている。

しかし空虚感はそれでは満たされない。

私自身が何らかの形で満たさなければならない。

それが何なのかは分からない、だからまた落ち込む。

早く見つけて何かに打ち込みたい…