メンヘラで空っぽな私

医師の診断によると気分変調症らしい。

高校時代に受診していた精神科では適応障害と言われた。

この辺りに私の中途半端さが如実に現れている。

健康でもなく病気でもない。

 

まさか自分がメンヘラになるなんて思いもしなかった。

中3の時から生きていることが嫌になってきたので、もう7年目くらいになるのか。

希死念慮の出現自体は中1の時にあったのだけれど、一旦引っ込んだ。

そのまま引っ込んでいてくれれば良かったのに。

 

私の人生の最盛期は小4までだったと、最近とみに思う。

ここ数年は本当に騙し騙しやってきている。

自分がつまらない人間だなと思う。

何にもない、空っぽである。

芸能人を追いかけることを好んでいるのは、自分の人生をその人に投影しているからではないのか。

応援することで自分も何かやったような気になっているのではないか。

虚しい、何の意味もない。

芸能人を追いかけている暇があったら本当は自分自身に投資したい。

これもそうすべきだという思い込みなのか。

 

小4までのあの万能感は何だったのだろう。

勉強もできたし運動もできた、友達もいっぱいいた。

今思えばリア充そのものである。

勘違いしている痛い奴でもあったのだが。

あの頃の私が今の私を見たら何と言うのだろう。

だらけているとか怠けているとか言うかもしれないな。

あの頃の私は、できるという自信があったし実際何でもできたから活気に溢れ健全な精神の持ち主であった。

 

小5で学校が変わって、仲が良いと言える友達がいなくなった。

声をかけてくれる人はいたけども、ペアやグループを組む時は孤独であった。

その時から親友を渇望し始めた。

絶対に私から離れていかない人が1人ほしい。

私が1番好きな人は、私のことを好きでも1番には考えてくれない。

それがすごく嫌だった。

その人にとって私は別に必要ないんだろうなと思った。

 

中学に入ったら新しい友達ができるかと思いきや、入学前に人間関係はある程度構築されていたようだったので、私の新しい友達を作ろうという夢は断たれた。

強制入部の部活も嫌で、これらの理由から私は不登校を選んだ。

今現在が健康ならばこの選択肢は正解であったが、そうではないわけだからこの選択肢は間違いだったように思う。

 

他人から称賛されたいという思いに苦しめられている。

他人の評価ばかり当てにしている。

最近は芸能人になりたいと考えるようになってきた。

チヤホヤされたい。

何をやっても満足できない。

同じ人に2度恋したこと(2度目の恋)

贔屓を観ている時、世界には贔屓と自分だけになる。

ましてや自分さえも消えて贔屓だけが世界に存在する。

今でもミーハー気質なのは変わらないけど、贔屓は一番好きな人だ。

最近は行き過ぎて、贔屓以外の人が視界に入ってくるのが嫌になりつつある。

もう贔屓しか観たくない。

 

何がそんなにいいんだろう。

好きなところはたくさんあっても好きな理由はない。

好みじゃなかったけど大好きってまさに恋だなと思う。

恋って本当に理屈じゃないし、タイミングがとても重要だということを贔屓を好きになってから感じざるを得ない。

 

「A Motion」のライブビューイングから華妃まいあさんのファンになったわけだが、しばらく掛け持ちしていた。

その頃は仙名彩世さんのファンでもあった。

ちなみに初めて手紙を出したのは仙名さんだった。

慣れてきてまいあちゃんにも手紙を出すようになり、お茶飲みに参加したいとの旨をお伝えした。

お茶会というものに参加したことはなかったのだが、まいあちゃんを好きだという気持ちが私を初体験へと促した。

 

お茶飲み当日、私はめちゃくちゃビビっていた。

会場に着いてからも雰囲気に圧倒され「絶対友達つくる!」とか意気込んでいたのはどうしたんだという感じだった(でも頑張って話しかけて1人友達ができた、駅まで一緒に帰ったし)

緊張してはいたもののグッズは買い、あとは本人の登場を待つのみであった。

 

時間が来てまいあちゃんが姿を現した時、私は再び「この世にこんな人がいたんだ」と驚いてしまった。

まいあちゃんって同じ人間だったのか。

先入観でファンに対して塩対応だと思っていたので、すごく優しく接してくれたことにもびっくりした。

いっぱい笑ってくれたし。

何より信じられなかったのが目をちゃんと合わせてくれたこと。

礼儀正しい子なんだな…と感心した。

お茶飲みの詳細は書けないので残念だが、お見送りもしてくれた。

その際なぜだか分からないけれども私はボロボロ泣いた。

まいあちゃんも周囲の人も「なんだこいつ…」と思ったに違いない。

自分が考えているよりまいあちゃんのことを好きになっていたのかもしれない。

泣きながら「ありがとうございます」を繰り返す私のことを、まいあちゃんは困惑しつつも優しく見守ってくれた。

 

この日からまいあちゃんが贔屓になり、現在まで至る。

入出待ちデビューも果たした。

今年は初めて宝塚大劇場に行こうと予定している。

全国ツアーも追いかけたい。

根底にある差別意識と性自認、性指向

私はコンテンツとして同性愛を楽しんでいるが、現実的に自分に関係することとして捉えると拒否感が出てくる。

そもそもコンテンツとして楽しむ姿勢もどうなのかと思う。

ただこの点については、異性愛をコンテンツとして楽しむ人がたくさんいるので同列として考えたい。

ここでまた同性愛を異性愛と同じ文脈で語れるのかという疑問が生じるけれども、私は語れると思っているし語るべきだと思う。

 

本題に戻る。

冒頭に書いた考えの大本は、端的に言うと自分は安全な位置にいながら弱者の支援をしたいという気持ちの表れである。

当事者になりたくない。

 

自分自身は異性愛者でも同性愛者でもないなあと思う。

男も女も好きだけど、いざ自分が付き合うとなるとどっちも違うような気がしてならない。

確実に言えるのは、私は女の側になりたくないということ。

これはどっちと付き合うにしろ感じる。

男に生まれて女と付き合いたかった。

でもこれから男になるのは違う、なったところで本物になれないし。

異性愛がしたいので彼氏は欲しいんだけれども、自分が女に見られていることを考えたら気持ち悪い。

これは今まで女扱いされてきていないから生じる気持ちなのか。

男として女と付き合ったとしても結局自分は男ではないし、相手は同性愛者であるから私を多分女だと思っているだろうし、女同士で付き合っているからやっていることは同性愛だし、などと無駄に考えてしまう。

女と付き合うと同性愛をやっている自分が気持ち悪くなる。

同性愛はしたくない。

こうやって差別している自分も嫌になってくる。

 

一番良い選択は異性愛至上主義の考えを捨て去り、また二元論的な性別に当てはまらない自分を受け入れること。

でも楽な方に逃げたいから、自分が女であることを認めて男と付き合いたいとも思う。

結婚したいし子ども欲しいので。

本当にしたいのではない。

自己実現できないから他者との関係において何か成し遂げたような気になりたいだけだ。

 

そもそも私は恋愛している場合じゃないと思う。

誰かとまともな関係を築くには精神が不安定すぎる。

相手にされた人がかわいそう。

心の底では別に恋愛はしなくていいと思っている。

彼氏は必要なのではない。

自分に何もないから彼氏で埋めようとしている。

しかし空虚感はそれでは満たされない。

私自身が何らかの形で満たさなければならない。

それが何なのかは分からない、だからまた落ち込む。

早く見つけて何かに打ち込みたい…

保守的なジェンダー観と百合の左右固定

かっこいい女性が男性と恋愛するのが嫌だ。

これは単純に私が百合が好きだからというのもあるけれども、かっこいい女性が「女性」になっていることが許せないのだと思う。

かっこいい女性にはかっこいいままでいてほしい、つまり男性的でいてほしい。

 

さすがに現実世界の人にこんなことは思わないがフィクションのキャラにはしょっちゅう思っている。

かっこいい女性キャラは恋愛しないか、女の子とくっついてほしい。

この場合の「女の子」というのもミソである。

簡潔に言うと、かっこいい女性キャラ×可愛い女の子キャラの百合が好きだ。

両方可愛かったり(綺麗だったり)かっこよかったりする百合も良いけれど。

ちなみに逆は無理。

なぜ無理なのかというと、私は結局のところ保守的なジェンダー観・恋愛観に囚われているから。

男らしい男性×女らしい女性の恋愛に安心するという点は否めない。(実際にこういうカップリングを好きになるかと聞かれたら微妙)

かっこいい女性×可愛い女の子の百合は、表面的に女同士だが質的に王子様とお姫様だから好きなのだ。

これは宝塚歌劇に私が求めているものでもある。

かなり個人的な話をすると女が男に性的に見られている状態が怖い。

でも異性愛は嫌いではない。

 

かっこいい女性は男性的な役割を果たすが男性ではないから好きだ。

ゆえにかっこいい女性が男性と恋愛すると男性的な役割を果たさなくなるので嫌になる。

ではかっこいい女性×可愛い男性のカップリングではどうか?

私は好きにならない、なれない。

 

異性愛に疑問を持たないでいられたら楽だなあと思う。

自然に身についてきたものと自ら身につけてきたものとの差が苦しい。

なんで自分は女なんだろうとか考えたくなかった。

いろいろ気づかない方が幸せだったんじゃないかな。

それが良いわけではないんだろうけど。

 

宝塚は舞台も観客も女だらけだからすごくホッとする。

それでいて男役は男らしいし娘役は女らしいのでまさに理想である。

しかし理想的であればあるほど辛い。

どうして娘役は主役になれないのかなとか、自分は根っこの部分で同性愛を差別しているなとか考えてしまう。

考えたくない。

だからそろそろ宝塚ファンをやめるべきなのかもしれない。

でも多分ここが自分にとって一番心地良いと思う。

同じ人に2度恋したこと(1度目の恋)

私は宝塚歌劇団のファンである。

2014年4月に宝塚歌劇100周年記念式典の様子をテレビで観てからスルスルッと好きになり、現在まで至る。

元々、男装している女性やかっこいい女性が好きということもあり素養はあった。

 

それからの経過はいろいろとあるのだが、ここで書きたいのは現在のご贔屓についてである。

贔屓を好きになるまで違う人のファンをしていたし、贔屓のことは期と名前、なんとなくこういう顔をしている人、成績が良いわりに干されている人というかなりぼんやりした印象だった。

正直好みのタイプでなく、宙組の子だからなんとなく覚えていたのだった。

私は宝塚ファンになってから今まで、組で言うと宙組ファンである。

 

2017年3月まで地方の実家にいたためなかなか観劇ができず、4月に関東の方に進学してから東京宝塚劇場で公演していた「王妃の館/VIVA FESTA」を観に行った。

この時、贔屓は良い場面をもらっていたのに私は露ほども贔屓のことを観ていなかった。

今ではとても後悔している。

全身黒の彩花まりさんにときめいたり、ソーラン節のうららちゃんにキャーキャー言ったりしていたのだ。

 

当然のごとく別箱での公演も観に行った。

運命の「A Motion」である。

東京で生で観劇することは決めていたのだが、大阪公演がライブビューイングされ、都合がついたのでこちらも観た。

中継が始まった当初はうららちゃん綺麗♡せーこさん可愛い♡愛ちゃんかっこいい♡などとミーハー根性丸出しであった。

しかし決定的な瞬間が訪れる。

「ファントム」より「パリのメロディー」の場面で、私は雷に打たれたような感覚を味わうことになる。

センターで歌う娘役の笑顔に心を奪われてしまったのである。

彼女の顔は微妙に知っているけれども名前は分からず、だが彼女の笑顔がとてつもなく可愛いことだけは当時の私はひしひしと感じていた。

この世にこんな人がいたとは。

私はタカラジェンヌも人間だと思っていたので、同じ人間だとは思えないと感じたのはこの時が初めてだったような気がする。

歌が上手いんだなーとかスタイルも良いんだなとか思ったけれど、とにかくこの人の笑顔が頭に焼き付いて離れなかった。

明らかに恋に落ちていた。

終演後すぐ名前を調べ、華妃まいあさんという方だと知った。

ここでようやく、恋に落ちた彼女とぼんやり知っている宙組の下級生が脳内でつながった。

 

続きます。